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何ゆえ、人は酒を飲むのか?|哲学者から学ぶ酒フィロソフィー

皆様こんにちは、酒好きブロガーのシサカです!

私はブログを書く程には「お酒」というものに関心があるのですが、そのお酒について考え事に耽っていると、時折ふと思うことがあります。

目次

何故、人は酒を飲むのだろうか?

漠然とそんなふうに思った事が、誰しも一度くらいはあるのではないでしょうか。

しかしこれは素朴な疑問であると同時に非常に哲学的な問いでもあると思うのです。

我々が住む日本の歴史を遡ると、古来より日本では「酒は百薬の長」と呼ばれ、嗜む程度であれば時に薬にすら勝ると伝えられてきました。

そして、古代ギリシャの哲学者アナカルシスは「酒の一杯は健康、二杯は快楽、三杯は放縦、四杯は狂気」という言葉を残しています。

確かに適量を摂取するのであれば疲労回復、食欲増進、ストレス緩和、人間関係の潤滑剤など良薬としてのあらゆる恩恵を受けることが可能である反面、一線を越えた途端にそれは毒へと転じます。

酔ってやらかした経験は誰しもあるでしょう

先人たちが言うように中庸(ほどほどにする)という事が何ごとにおいても肝要なのです。

しかし我々はそれを頭では理解しながら、また酒を飲んでは間違えてしまう。

それはなぜなのでしょうか?

この問いは実存と構造が鬩ぎ合う世界を生きる一人の人間として向き合わなければいけない問題なのかもしれません――。

酒と意志|イマヌエル・カント

それを紐解くヒントとして挙げたい人物が18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724 – 1804)です。

イマヌエル・カント(Immanuel Kant 1724年4月22日 – 1804年2月12日) は、プロイセン王国の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。
『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、人間の認識構造を吟味・批判する批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。
出典:Wikipedia

カントの偉業といえば、著名なのは「大陸合理論」と「イギリス経験論」というそれまで対立しあっていた概念をひとつにまとめ上げたという功績があまりにも有名ですが、こと倫理思想においても自立の意志や人間性、人格の尊厳を説き、後世に計り知れない影響を与えた大哲学者であります。

そのカントが晩年に発表した著書『道徳形而上学の基礎づけ』によると、

人は誰しも自分の同胞から尊敬されたいという正当な欲求を持っている。そして、その一方ではすべての者に対して尊敬を払う義務を持っている。

という一節があり、

「人間はいかなる者によっても単なる手段として利用されてはならず、常に目的として存在しなければならない。人間はその点において尊厳があるのだ。」と主張しています。

これは一体どういうことかというと、

わたしたちは人間なのだから、動物のように他からの強制によって行為させられる(専門用語で「他律」という)のではなく、自らの規範に従って行為しなければならない。

すなわち存在そのものが「目的」となり得るとは、自らの意志で考え行動し、何者かの「手段」として強制されることのない行為を選択することをカントは要求するのです。

酒の飲み方など千差万別ですが、それを手に取り口に運ぶまでのすべてのプロセスは(ハラスメントでも受けない限り)「自らの意志」で行われるべきなのです。

この自らの意思を尊重したうえでの能動的な行為(自律)こそが人間にとっての自由であり、人間としての本質であるとカントは説いているのです

酒を飲む目的とは何か?

ですがここで新たな疑問が浮き彫りになってきます。

能動的に自ら選択をすることの重要性は理解できた。

だがしかし、酒は飲み過ぎると理性を保つのが難しくなり、時として破滅するリスクすらあるもの
。そのデメリットを理解したうえで自らそのリスクを選び取る目的とはいったい何なのだろうか?

それも『目的としての存在』に尊厳を見出すカントの思想にヒントがあると考えます。

人は基本的に自由意志で酒を飲んでいる。

仕事の延長線上で飲むにしても、プライベートで飲むにしてもその場に赴いている時点で何らかの『目的』は存在するのです。

仕事の飲みであれば同僚やクライアントと一席を設けることによって、組織人として、取引相手として、よりよいコミュニケーションを取ることでメンバーシップを図り、時に取引で得た利益を組織に還元することで「コミュニティーの中に自分の居場所を確保する」という目的を見出すことが出来ます。(まあ、個人的にあまり好きではないですが)

プライベートであれば、一時的とはいえ構造的しがらみから解放された一個の理性的な主体として、酒を燃料に様々な命題に対して思索を試みることにより、考えの幅を自由かつクリエイティブに広げることができるかもしれない。

人間のすべての行動に目的があるとするのなら、

「目的を見出す為」というのもまた立派な目的になり得ると思うのです。

カントもよく飲んでた

実際カント自身もメドックの赤ワインとチーズの組み合わせを好み、自らの思想や理論体系を構築していったと伝えられています。

目的と手段を明確に分け、批判哲学をはじめとする様々な論理で尊厳を説いたカント自身も、その目的に到達するために酒を飲んでいたと解釈できなくもないでしょう。

このように、このカント哲学と照らし合わせて「人生」×「酒」の関係性を考えてみると、「人は酒を飲むために生きている」のではなく、「生きるために人は酒を飲む」というコペルニクス的転回が成り立つのではないでしょうか。

人にとって酒は、「飲むこと自体」が目的なのではなく、言うなれば「飲む」=「考える」=「よりよく生きる」という目的を感じ取っているからこそ、破滅するかもしれないリスクを認識しつつもアルコールを口に運んでいるのかもしれない。

なのでアルコールは「自身の人生に積極的に関わっていく」という生きていくうえで非常に重要な営みをする為の呼び水になり得ると考えます。

そして重要なのは・・・

だがしかし、「何故、人は酒を飲むのか?」

…という問いに対してひとつの着想は得たとしても、さらにその先にある「自分は、どう生きるか?」という演繹的な問題に対する答えは、自らの意志で思索を重ね続けることによってしか導き出すことなど到底できはしないでしょう。

故にこれからも人々はうまい酒を望み、自らの意志でグラスを手に取るのです。

ソクラテス曰く人は自分が何も知らない事しか知りえないのなら、考えることを止める理由もまた、どこにもないはずです。

私自身も自らの人生に積極的に関わっていく為、生を拡充させるため、思索を少しでも深めるため、今宵もバーボン片手に西に向かうとしましょう(笑)

明日へのヒントを昨日に探し、偉大なる先人たちに思いを馳せて。

ではまた。


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この記事を書いた人

サラリーマンの傍らブログ運営。
お酒にまつわる情報や考えを、心理学や哲学など色んなネタを絡めながら発信しています。
気分によって文体がコロコロ変わるので悪しからず。

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