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「オシャレなBAR」に着ていく「オシャレな服」を買いに行く「オシャレな服」がない問題

この記事は、ある夜に発生した事件の記録である。
そしてこの事件は今なお未解決のまま現在に至っている…。

目次

序章:事件の発生

皆様こんにちは、酒と哲学好きブロガーのシサカです。

突然だが、私はオシャレなBARに行きたい。

この欲求は、ある夜、私の内部に出現した。

「突然」と書きたいところだが、正確には突然ではない。

欲求とは常に因果の連鎖として出現するものであり、私がその夜BARに行きたいと思ったのは、あらゆる雑事が終わり、疲弊が一定のラインを超え、孤独感が別のラインを超え、琥珀色のウイスキーがある種の救済イメージとして脳内に現れた、という数々の変数が連立方程式として解かれた必然の結果である。

つまり私は合理的存在として、BARに行くことを選択するわけだ。

しかし、事件が発生したのはその直後だった。

シサカ

服がない…。

否。
正確に言えば、服はある。

クローゼットを開ければ複数のトップスがハンガーに吊るされており、引き出しを開ければ折り畳まれたパンツが整然と収まっている。

着るものが物理的に存在しないわけではない。

事件はより根本的で、より本質的で、より手に負えない次元に宿っていた。

シサカ

この服は、BARにふさわしいのか…

…。

皆まで言わなくてもわかっている。

では、服を買いに行けばいい。解決策は明快だ。私はそう思った。

しかしここで、事件は第二層に達した。

服を買いに服屋に行くにも、それなりの服がいるのだ。

私が思い浮かべた服屋は、ある程度オシャレな店構えをしている。
そこへ今の服で赴くことは、BARに今の服で赴くことと、構造的に同一の問題を孕んでいる。

BARに行くためのオシャレな服がない。
そして その服を買いに行くためのオシャレな服もまた、ない。

事件は入れ子になっている。そしてこの入れ子は、原理的に収束しない。

「オシャレな服」とはそもそも一体どういうもののことを指すのか?
「ふさわしい」とはいかなる認識論的プロセスの結果か?
そして「この服」と「BARにふさわしい服」の間に横たわる深淵とは何か?
そしてなぜ、その深淵を埋めようとする行為が、新たな深淵を生むのか?

私はこれらの問いを正確に記述し、分析し、解体し、再構築することで、問題の本質に迫ることを決めた。

問題を正確に記述できた者のみが問題を解決する資格を持つからだ。

そして問題を正確に記述するためには、人類が数千年をかけて蓄積してきた知的遺産を総動員する必要がある。

本稿はその試みである。

第一章:そもそもオシャレとは何か?|カントと美的判断の問い

そもそも「オシャレ」とは何なのか?

この問いを経由せずして、「この服では許されない気がする」という感覚を分析することはできない。問いを根本から立て直す必要がある。

哲学者イマヌエル・カントは自身の著書『判断力批判』において、美的判断の独特な構造を精緻に記述した。

「これは美しい」という判断は、「このリンゴは赤い」という客観的事実の記述でもなく、「私はこれが好きだ」という純粋な主観的選好の表明でもない。美的判断は、主観的でありながら、同時に普遍的同意を要求する。

「これは美しい」と言うとき、人は暗黙のうちに「あなたもそう感じるはずだ」と主張しているのである。

おしゃれもまた、この構造に従う。
「あの服はおしゃれだ」という判断は、単なる個人的好みの表明ではなく、ある共同体の感性への訴えかけを含んでいる。
おしゃれとは、個人の表現が、想定される共同体的感性と一致している状態——あるいはより正確には、一致していると広く認められている状態——として定義できる。

そしてそこから、「ダサい」の定義もまた自然に導かれる。

ダサいとは、おしゃれの単なる失敗形態ではない。
ダサさとは、個人の表現と、想定される共同体的感性との間に生じる**「ズレ」**である。

オシャレさが一致であるなら、ダサさは乖離だ。

このダサいをもたらす「ズレ」は意図的に操作されることもある(それをアバンギャルドと呼ぶ)が、意図せず発生することもある。(私は後者でないことを祈るが)。

私の服は、このズレを修正する能力を持っていない。

正確には、持っているかもしれないが、私にはそれを確認する手段がない。
なぜ確認できないのか。

それは次章以降で明らかになる。

第二章:BARという空間の存在論的構造

哲学的考察を進める前に、BARという場の本質を規定しておかなければならない。

BARとは何か?

表面的には、アルコール飲料を提供する飲食店である。
しかしこの定義は、BARの本質を完全に取りこぼしている。

レストランとBARの本質的差異を考える。
レストランでは、人々は食事という明確な目的に向かっており、他者への注意は副次的である。

しかしBARでは、目的が曖昧で、拡散的で、半透明である。

人々は酒を飲みながら、互いを、空間を、あるいは沈黙を、緩やかに観測し合っている。
バーテンダーがグラスを磨く動作、カウンターに腰掛けた人物の背筋、氷が沈んでいく速度——これらすべてが観測の対象であり、同時に観測の主体でもある。

BARは、観測が常時発生している空間である。

この一点が、服装の問題を決定的に重要なものにする。

私がBARに入った瞬間、私は観測されてしまう。
バーテンダーの視線が私を走査する。
カウンターの先客が、視野の端で私の存在を登録する。
奥のソファから、誰かが一瞥を投じる。

これらの観測はすべて、私の服装を、私という存在の記号的総体として読み取る。

服とは、この文脈において、入場資格であり、名刺であり、自己申告書である。

「この服ではふさわしくない気がする」という感覚を翻訳するならば、こうなるだろう。

「この服では、適切に観測されない可能性がある」。

私は観測されたい。しかも正しく観測されたい。
正しく観測されるためには、正しい記号を装備しなければならないが私は正しい記号を持っていない。

問題は第二層に達した。以降、問題は加速する。

第三章:統合理論――人類の知を「服がない」問題に向ける

以下において私は、あらゆる学術的枠組みを駆使し、「服がない」問題に対する包括的な理論を構築する。

これらは個別の分析視点ではなく、一つの連続した論理の、異なる断面である。

chapter-①【人類学】:BARへの入場は、通過儀礼である

人類学者のファン・へネップは『通過儀礼』において、あらゆる文化における移行の儀式を「分離・過渡・統合」の三段階として記述した。成人式、結婚式、葬儀——これらはすべて、ある社会的状態から別の社会的状態への移行を儀礼的に確認する行為である。

BARへの入場は、この構造と同型である。

「自宅にいる私」から「BARにいる私」への移行は、単なる物理的な場所の移動ではない。
分離(自宅を出る)、過渡(夜の街を歩く)、統合(BARに入場し、その空間の一員となる)。
それは社会的状態の変換であり、ある種の通過儀礼として機能する。

ファン・へネップが指摘するように、通過儀礼には必ず「儀礼的装備」が必要とされる。

成人式における正装、冠婚葬祭における礼服——これらは恣意的な慣習ではなく、通過儀礼を完成させるために不可欠な記号的装備である。

BARへの入場における儀礼的装備とは、すなわちオシャレな服である。

私はこの装備を持っていない。

したがって私は、通過儀礼の「過渡」段階に永久に留まり続けている。

自宅を出ることができず、BARに統合されることもできず、夜の街のどこかで宙吊りになっている。人類学的に言えば、私は「リミナリティ(閾値状態)」に囚われた存在である…。

chapter-②【観念論】:服の存在、そして神の審美眼について

ここで一つの前提を問い直す必要がある。

私は「服がある」と述べた。
しかし、本当にそうだろうか?

まず認識論的限界を確認しよう。

「私はオシャレか?」という問いに、私は自分で答えることができない。

オシャレとは他者の認識を通じてのみ実現される状態であり、私が認識できるのは「私から見た私の服」のみである

他者の視点からの評価は、推論と想像によってしか近似できない。

この認識論的限界を踏まえた上で、より根本的な問いに進む。

哲学者ジョージ・バークリーは「存在することは知覚されることである(esse est percipi)」と述べた。
知覚されない事物は存在しない、という命題だ。

この論理を部屋のクローゼットに適用してみよう。

私のクローゼットの中の服は、今この瞬間、誰にも見られていない。
私はそこでこの文章を書いているが、バーテンダーは別の場所にいる。隣人は自分の生活に忙しい。宇宙のいかなる知性的存在も、今現在、私の服を観測していない。

バークリーの観念論に厳密に従うならば、観測されていない私の服は、存在しているとは言えないのではないか?

問題の記述が更新された。

「服がない」のではなく「服が存在していない」のである。

よもや深刻さの次元が一つ上がってしまった…。

ただし、バークリーはこの問題を神の遍在によって解決した。
神がすべてを常時観測しているがゆえに、観測者のいない場所でも事物は存在し続ける——というのが彼の回答だ。

したがって、もし神が私のクローゼットを常時観測しているならば、服は存在している。存在論的危機は回避される。

しかし問題は残る。

神は、私の服をオシャレだと思っているだろうか

この問いに答えられる者は、現時点では存在しない。

chapter-③【現象学】:店の前で立ち止まる身体

ならば服を買いに行けばいい、という提案がある。
合理的だ。私もそう思う。

だが問題は、服屋の前に立つと身体が動かないことだ

これは比喩ではない。
ハイセンスな服を並べた店の前で、私の足は、ある種の抵抗を示す。敷居を越えることを、身体が先行的に拒否する。入り口の自動ドアが開いても、私は一歩手前で静止している。
自動ドアがゆっくり閉まる。また開く。また閉まる。

メルロ=ポンティの身体図式の概念は、この現象を説明する。
身体は、意識的判断に先行して、世界との関係性を感知する。私の身体は「あなたはこの場に入るべき者ではない」というシグナルを、意識より先に受け取ってしまっている。

さらに重要なのは、私がその入り口の前で何を経験しているかだ。

私は店内の自分を先取りして想像している。
陳列された服の間を歩く自分、店員に声をかけられる自分、試着室の鏡の前に立つ自分——そして鏡の中で「何かが違う」という顔をしている自分。

現象学の創始者、エトムント・フッサールの言う「内的時間意識」において、未来は現在の中にすでに先取りされる。つまり私は、まだ起きていない審判を、店の前でリアルタイムに経験している。

ジャッジメントは、入店する前にすでに終わっているのである。

結果は有罪だ。

chapter-④【社会学】:私は衣装を持たない役者である

社会学者のアーヴィング・ゴッフマンは著書『日常生活における自己呈示』において、社会生活を演劇的枠組みで分析した。人間は常に他者に向けて「演技」しており、社会的相互作用はすべて舞台上のパフォーマンスとして理解できる、というのがその主張だ。

この枠組みにおいて、BARは「フロントステージ(表舞台)」であり、自宅は「バックステージ(舞台裏)」に相当する。
フロントステージでは、役者は観客に向けて自己を呈示し、バックステージでは、役者は素に戻り、次の演技を準備する。

演劇において、役者が舞台に立つためには衣装が必要だ

衣装なき役者は、舞台に立つことができない。あるいは立ったとしても、それは「衣装のない役者」として観客に認識される——これは劇として成立しない。

私は今夜、BARというフロントステージに立つことを望んでいる。しかし私には衣装がない。

ゴッフマンの言う「印象管理(impression management)」(他者に対していかなる印象を与えるかを戦略的に操作する行為)を遂行するためのツールが、私には欠如している。

私は衣装を持たない道化であり、舞台の袖でずっと出番を待っている。

そしてその公演は、まもなく終わる。

chapter-⑤【存在論】:「私」はまだ存在していない

ここで、より根本的な命題を提出する。

他者に認識されることなしには、ある種の存在様式というのは実現されない。

「オシャレな人としての私」という存在様式は、他者の認識によって初めて成立する。

私の自己評価がいかに高くとも、他者に認識されない限り、社会的存在としての「オシャレな私」は存在しない。存在とは、関係の中において成立するものであるから。

BARという観測の場において、私は「適切にオシャレな者」として存在したい

しかしその存在様式を獲得するためには、「適切な服装」という入場券が必要だ。私は現在、その入場券を持っていない。

したがって、私はまだ存在していない。

少なくとも、私が存在したい形式においては。

この命題は、実存的な絶望の表明ではなく、存在論的な現状分析である。

私はただ、正確に、状況を記述しているだけだ。

私が落ち込んでいると解釈しないでほしい。

chapter-⑥【言語哲学】:私の服装の限界が、私の世界の限界である

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において、「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」と述べた。

この命題を、服装に適用する。

私の服装の限界が、私の世界の限界である。

BARは、私の服装が表現できない世界だ。

私の服装がその言語を持たない以上、BARは私にとってアクセス不可能な世界として存在する。私がどれほどBARに行きたいと思っても、私の服装という言語がその世界を記述できない以上、私はその世界に参入できない。

言語なき世界は、存在しないも同然である。

以上。

chapter-⑦【情報理論】:服が発するシグナルとエントロピー

数学者のシャノンは情報理論において、情報エントロピーを
H = -Σ p(x) log p(x)
として定義した。エントロピーが高いほど、メッセージの不確かさ(予測不可能性)は大きい。

私の服装を、送信者から受信者(バーテンダー)へと届くシグナルとして考えよう。

適切な服装とは、受信者が正確に解読できる低エントロピーのシグナルである。

たとえば「黒のタートルネック+スラックス」というシグナルは、バーテンダーに「知的・都会的・落ち着いた客」という明確なメッセージを伝達する。シグナルは明確であり、エントロピーは低い。

では私のシグナルのエントロピーはどうか?

私のファッションセンスにおいて、あらゆる服装の選択肢はほぼ等確率で出現する。
何がふさわしいかの知識が欠如しているため、選択の分布は一様に近い。

情報理論の観点から、一様分布はエントロピーを最大化する。

つまり私の服装が発するシグナルのエントロピーは、理論上の最大値に達している。

これは、私が何のメッセージも送っていないことと等価である。
私はバーテンダーに対して、完全なノイズとして現れる。通信チャネルは開いているが、有意な情報は何も届いていない。

受信者の立場から言えば、私は「解読不能な客」である。

chapter-⑧【量子力学】:私はオシャレでもダサくもない状態にある

量子力学のコペンハーゲン解釈は、観測が行われる以前、量子系は複数の状態の重ね合わせとして存在すると主張する。観測が行われた瞬間、波動関数は収縮し、系は一つの確定した状態をとる。

かの有名なシュレディンガーの考案した思考実験『シュレディンガーの猫』において、箱の中の猫は観測される前、「生きている」と「死んでいる」が重ね合わさった状態にある。

私の状況は、この構造と同じである。

私の服は現時点において、「オシャレである」状態と「ダサい」状態の重ね合わせとして存在する。
BARという観測空間に入場し、バーテンダーの視線という観測行為が行われた瞬間、波動関数は収縮し、私の服装は確定した状態をとる。

問題は、収縮の方向を私が制御できないことだ。

そして収縮の結果が「ダサい」であった場合、その状態はその日のモチベーションを不可逆的に支配する。

吾輩はシュレーディンガーの思考の上で踊らされる、箱の中の猫である。そして私は、箱を開けることを躊躇する。

観測を回避する唯一の方法は、BARに行かないことだけだ。

しかし私はBARに行きたい。

(なお、私の服は厳密な意味での量子系ではない。しかし比喩的精度の観点から、この枠組みは有効と判断する。)

chapter-⑨【熱力学】:ファッションはエントロピーに抗う行為であり、私にはその余力がない

熱力学の第二法則は、孤立系のエントロピーは常に増大する方向に向かうと述べる。秩序は自然に乱雑へと向かい、乱雑が自然に秩序へと向かうことはない。

この法則を私のクローゼットに適用しよう。

放置されたクローゼットは、時間の経過とともに自然に乱雑化する。
トレンドは移り変わり、体型は変化し、かつて「イケてる」と思っていた服は少しずつ時代から取り残されていく。

これは熱力学的必然であり、私の怠慢の結果ではない。…はずだ。

適切な服装を維持するためには、このエントロピー増大に抗う継続的なエネルギー投入が必要だ。

生命が外部からエネルギーを取り込んで低エントロピー状態を維持するように、「ファッションセンス」もまた外部からの情報・資金・労力の投入によってのみ維持される。

※なお、前節で登場したシャノンのエントロピーと本節の熱力学的エントロピーは、同じ語を用いているが異なる概念である。両者の間に関係がないとは言い切れないが、本稿ではそれぞれ独立したものとして扱う

問題は活性化エネルギーだ。
化学反応が進行するためには、反応物が一定の活性化エネルギーを超えなければならない。

同様に、私が「服を持っていない状態」から「適切な服を持っている状態」へと遷移するためには、活性化エネルギー——金銭、時間、決断力、店頭での精神的耐久力——を超えなければならない。

現在の私には、この活性化エネルギーが供給できていない。

私のファッションセンスは、熱力学的平衡——すなわち最大エントロピーの状態——へと、粛々と向かっていく。

chapter-⑩【経済学】:市場参入の無限後退とアグリッパの服装版

経済学的観点から、ファッションはシグナリング市場として理解できる。スペンスのシグナリング理論が示したように、参加者は可視的なシグナルを通じて自己の属性を他者に伝達する。BARはその典型的なシグナル市場なのだ。

この分析から、重大な問題が導かれる。

BARというシグナル市場への参入には、適切なシグナル送信能力——すなわち適切な服装——が必要である。

しかし適切な服装を入手するためには、服屋という別のシグナル市場への参入が必要となる。そして服屋への参入には、それなりの初期装備が求められる。

では、その初期装備はどこで調達するのか?

さらに別の市場への参入が必要となる。

BARに行くには服が必要。 服を買いに行くには服が必要。 その服を買いに行くにはさらに服が必要。 その服を……

この構造は収束しない。初期装備問題は、無限後退として出現する。

ここで問題の深刻さを正確に把握するために、この後退を丁寧に追ってみよう。

第一段階:BARに行きたい。服がない。→ 服を買いに行く必要がある。 第二段階:服を買いに行くための服がない。→ その服を買いに行く必要がある。 第三段階:その服を買いに行くための服がない。→ さらにその服を買いに行く必要がある。

数学的には、これは発散する。

私は無限個の服屋を訪問しなければならない計算になる。これはとても現実的とは言えない。

哲学的にこれはアグリッパのトリレンマ——あらゆる正当化は無限後退、循環論証、独断のいずれかに陥る——、の服装版である。

この問題には論理的に三つの出口しかない。

出口A:無限後退を受け入れ、永遠に服を買い続ける。 非現実的である。

出口B:どこかで独断的に「この服でいい」と決める。 これは可能だが、その決断の根拠は論理的に正当化できない。哲学的には敗北だ。

出口C:循環論証——「オシャレな服を持っている自分」を前提として、そこから逆算して服を選ぶ。 これは存在していない自分を仮定することであり、存在論的に問題がある。

私はどの出口も選べていない。

ここで読者は「ユニクロがある」と思うかもしれない。
たしかにユニクロの服の品質は素晴らしく、初期装備問題を解決するように見える。


しかし問題は、ユニクロで購入した服でBARに行けるかどうかではない。
問題は、ユニクロで購入した服でBARに行っていいかどうか、という感覚の問題である。

そしてこの「いいかどうか」は、人類学的・社会学的・熱力学的・情報理論的問題であり、経済学が直接解決できる問題ではないようだ。

chapter-⑪【行動経済学】:なぜ合理的解決策は機能しないのか

ここで疑問が生じる。
この問題を合理的に考えれば、明快な解決策はいくつか浮かぶということだ。

でもなぜか人は合理的判断に踏み切れない。

行動経済学は、合理的解決策がなぜ機能しないかを複数のメカニズムで説明する。

現在バイアス。 人間は将来の利得よりも現在の快楽を過剰に選好する。「今夜BARに行きたい」という現在の欲求と、「服を選んで決断する」という労力の間の心理的距離は、論理的距離よりはるかに大きい。

選択麻痺。 選択肢の過剰は、決定を容易にするどころか不可能に近づける。シュワルツの「選択のパラドックス」が示すように、あらゆる選択肢を検討しようとする試みは、選択そのものを不可能にする。

現状維持バイアス。 人間は現状からの変化を損失として認識する傾向がある。「服を買わない」という現状維持は、たとえそれがBARへの不参入という帰結を生むとしても、「服を買う」という変化よりも心理的安定を提供する。

これらのバイアスが複合的に作用した結果として、私は動けない。

人間は不合理である。
そして私はその典型例だ。この認識は、服を一枚も増やさない。

第四章:二つの選択肢と、その哲学的検討

理論的装備は完成した。次の段階は選択の実行である。

結果、選択肢は二つしかない。

A. 服を買う。

B. 服を買わない。

以上だ。
第三の選択肢は存在しない。この点においてのみ問題は古典的であり、量子論的重ね合わせも許されない。

Aを選んだ場合:服を入手し、BARに入場し、観測され、波動関数が収縮し、確定した存在様式を獲得する。その結果が「オシャレな者」であるか「ダサい者」であるかは事前に分からないが、少なくとも存在論的には前進がある。

Bを選んだ場合:服を入手せず、BARに行かず、観測されず、重ね合わせ状態のまま夜が終わる。リミナリティに囚われたまま、通過儀礼は永遠に完了しない。


「買わない」という選択の矛盾について

しかし「買わない」という選択について、より深く考察しなければならない。

なぜなら、この選択は表面的に「高尚」に見えるからだ。

「服を買わない」と決断することは、欲望に支配されず、ファッション資本主義の論理を拒絶し、物質的所有への執着を超脱した、成熟した精神の表れとして解釈できる。

実際ストア哲学は欲望からの自由を説いたし、仏教は欲求の放棄を解脱への道として位置づけた。

「服を買わない私」は、これらの伝統と接続することで、一種の精神的高みを装うことができるだろう。

しかし、ここに決定的な矛盾がある。

「欲しない自分」を欲することの矛盾、である。

私が「服を買わない」と決断するとき、その動機は三つの可能性に分岐する。

第一の可能性:本当に欲求がない。 しかしこれは事実に反する。私はBARに行きたいと思っており、そのために服が必要だと認識している。欲求は存在する。

第二の可能性:欲求はあるが、失敗への恐怖が欲求を圧倒している。 これは高尚な超脱ではなく、臆病の哲学的合理化である。

第三の可能性:「服を欲しない高尚な自分」というセルフイメージを欲している。 私は服を欲するのではなく、「服を欲しない自分」を欲している。しかしこれは明白な矛盾である。「欲しない自分」を欲することは、それ自体が欲求であり、「欲しない」という前提を自己否定している。

「買わない」という選択は、哲学的に清潔な選択ではありえない。それはつねに、何らかの欲望の変形として機能する。

終章:理解と現実と、永遠の断絶について

以上において、一つの問題をあらゆる学術的枠組みからの分析を試みた。

まとめ
  • まず「おしゃれ」とは共同体的感性との一致として定義され、ダサさはその乖離として導出された。その土台の上で、以下の十一の枠組みを横断した
  • 人類学的には、私がリミナリティに囚われていることが確認された。
  • 観念論的には、服の存在すら疑わしく、神の審美眼は不明であることが示された。
  • 現象学的には、身体が意識に先行して審判を下すことが確認された。
  • 社会学的には、私が衣装のない役者として舞台の袖に立っていることが明らかになった。
  • 存在論的には、私がまだ存在していないことが確認された。
  • 言語哲学的には、私の服装の限界が私の世界の限界であることが示された。
  • 情報理論的には、私のシグナルのエントロピーが最大値に達していることが算出された。
  • 量子力学的には、私が重ね合わせ状態にあり、観測が状態を確定させることが論じられた。
  • 熱力学的には、私のクローゼットが最大エントロピーへと向かっており、活性化エネルギーが不足していることが判明した。
  • 経済学的には、参入障壁の無限後退がアグリッパのトリレンマとして定式化された。
  • 行動経済学的には、人間が不合理であることが再確認された。

これ以上の理解はもいう無理だ。少なくとも現時点の人類の知的水準においては。

しかし、

ここに至って、私はようやく一つの事実に気づくことができた。

服屋の前で身体が動かないのは、現象学的に説明できた。
服屋という市場への参入に初期装備が必要なのは、経済学的に明らかだ。
活性化エネルギーが不足しているのは、熱力学が証明した。

では、服屋に行かずに服を入手する方法はないのか。

ある。

ネット通販である。

自宅から出ることなく、身体の現象学的抵抗を完全に回避し、初期装備問題を無効化し、観測されることなく服を入手できる。この方法は、リミナリティも、印象管理の失敗も、波動関数の不都合な収縮も発生させない。さらに近年は「置き配」なるサービスも浸透していて、わたしは配送員に服装を審査されずに済むのだ。荷物を受け取る際に量子的観測は生じない。

私はこの結論を、じつに十一もの学術領域を横断したのちに、導き出した。

人類学を経由し、バークリーを迂回し、メルロ=ポンティに寄り道し、ゴッフマンを参照し、ハイデガーを踏み台にし、ウィトゲンシュタインを引用し、シャノンを計算し、シュレーディンガーの箱を開け、熱力学第二法則に従い、スペンスの理論を展開し、行動経済学のバイアスを列挙した末に。

ネット通販をすればよかったのだ。

この結論は、おそらく最初から存在していたのかもしれない。

謝辞

ZOZOTOWN創業者
前澤 友作 様

前略

あなたがこの日本国におけるファッション市場にネット通販を根付かせてくれたおかげで、この長きにわたって人類を苦しめてきた問題は、理論上、解決できるはずであります。
オシャレ過ぎる服屋の前で立ち尽くす必要もなく、自動ドアの開閉を見守る必要もなく、バーテンダー様の視線に波動関数を収縮させられることもなく、自宅から服を入手できる——その仕組みを構築してくださったご慧眼と行動力に、心より感謝申し上げます。

草々

追記

この文章を書き終えた後、私は意気揚々とECサイトを開いた。

検索窓に「メンズ バー 服装」と入力した。数えきれないほどのアイテムが表示された。

小一時間スクロールした。

そして、すべての服に対して、同じ感想を抱いた。

シサカ

わたしはこの服にふさわしいのか…?

……。

ん?

この問いは、なんだか見覚えがある。

これはもしかして、冒頭に提起した問題が姿かたちを変えて現れただけなのでは?
つまり服屋の自動ドアがサムネイル画像に置き換わっただけではないのか?問題の座標が、現実空間からスクリーンに移動しただけで構造自体は何も変わっていないではないか。

私は本稿において、この構造を既に記述していた。記述した本人が、その構造に再び捕捉されていた。

オシャレな服を買いに行く前に、オシャレな服を選び取るセンスが、私にはそもそも無いのである。

考えてみれば、そのセンスを持ち合わせているならば、こんな文章をそもそも書く必要がない。

一万字以上を費やして導いた結論が、「センス」の3文字によって塵と化した。
私はその一瞬を知るために、膨大な時間と手間というリソースを費やしたというのか…

この人類史上最もインポッシブルというっても過言ではないミッションをクリアすべく、先人たちの叡智をフル動員したにも関わらず、問題は解決には至らなかった…。

私は偉大なる先人たちに思いを馳せながら、サイトを静かに閉じたのだった…。


いかがでしたでしょうか?

本稿が、この私の思考実験が、今まさに服の購入を検討されている方の参考になれば幸いです。

ではまた。

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この記事を書いた人

サラリーマンの傍らブログ運営。
お酒にまつわる情報や考えを、心理学や哲学など色んなネタを絡めながら発信しています。
気分によって文体がコロコロ変わるので悪しからず。

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